グラスの中は、小さな発酵実験室
「Life is a Lab.」――人生まるごと実験室。今日の実験台は、キンと冷えたグラスの中です。同じ「ビール」という名前でも、キリッと軽くてのどをスッと通るものもあれば、フルーツのような香りが立ちのぼり、飲みごたえのあるものもあります。ラベルをよく見ると、片方には「ラガー」、もう片方には「エール」と書かれていることが多いはずです。
この2つ、原料である麦とホップは基本的に同じ仲間です。それなのに、なぜここまで味わいが変わるのでしょうか。答えは、ビールを造る「主役」と、その主役が働く「温度」にありました。ホップの苦味づけや原料の配合ももちろん影響しますが、まず一番おおもとにある仕組みを、順番にほどいていきます。

主役は「酵母」。上で働くか、下で働くか
ビールは、麦から作った甘い液(麦汁)に酵母(こうぼ)という微生物を入れ、糖をアルコールと炭酸ガスに変えてもらう飲みものです。この酵母には大きく2つのタイプがあり、どちらを使うかでビールの呼び名が分かれます。
ひとつは上面発酵(じょうめんはっこう)酵母。発酵が進むと、酵母が炭酸ガスの泡といっしょに液の表面へ浮かび上がってくる性質があります。この酵母で造ったビールがエールです。もうひとつは下面発酵(かめんはっこう)酵母。こちらは発酵が終わるとタンクの底のほうへ沈んでいきます。これで造ったものがラガーです。「上に浮くからエール」「下に沈むからラガー」と覚えると、もう混乱しません。
ちなみに「ラガー」という言葉は、ドイツ語で「貯蔵する」という意味の言葉が由来とされています。低い温度でじっくり寝かせて造る、という製法そのものが名前になったわけです。原料の分類ではなく“造り方”が名前になっている、というのは知っておくと面白いポイントです。
味の分かれ道は「発酵温度」
2つの酵母は、働きやすい温度がまるで違います。エールの上面発酵酵母は、だいたい15〜24℃くらいの、少し暖かめの温度が得意です。一方ラガーの下面発酵酵母は、5〜12℃ほどの低い温度でゆっくり働きます。数値には幅があり醸造所ごとに調整しますが、この温度差こそが味の最大の分かれ道です。
暖かい温度で元気に発酵すると、酵母はアルコールを造るついでに、エステルと呼ばれる香りのもとをたくさん生み出します。エステルは、バナナやりんご、洋なしのようなフルーティーな香りの正体です。エールが華やかで個性的な香りをまとうのは、このためです。
反対に、低い温度でゆっくり発酵させると、酵母はおとなしく糖の分解に専念し、余計な香り成分をあまり出しません。その結果、雑味の少ないクリアで切れのある味わいになります。ラガーが「スッキリ」「のどごし爽やか」と言われるのは、この低温発酵のおかげです。時間をかけて低温で寝かせることで、味の角も取れて澄んでいく、というわけです。

もうひとつ面白いのが、発酵にかかる時間です。暖かいエールは酵母の動きが活発なので、主な発酵はおよそ3〜5日と短め。低温のラガーは酵母がゆっくりなので、寝かせる期間まで含めると数週間から1か月ほどかかることも珍しくありません。「スッキリ」の裏には、それだけの時間と手間が隠れているのです。
表で整理してみる
ここまでの違いを一枚の表にまとめます。飲み比べのときにこの表を思い出すと、味の背景まで想像できて何倍も楽しくなります。

ざっくり言えば、エールは「香りと個性」、ラガーは「キレと飲みやすさ」。世界中で飲まれているピルスナーの多くはラガーの仲間で、日本の大手メーカーの定番ビールもこのタイプが中心です。一方、クラフトビールでよく見かけるペールエールやIPA、白ビール(ヴァイツェン)などはエールの仲間になります。今度お店でラベルを見るときは、この分類を探してみてください。
話したくなる発見:ラガー酵母は「雑種」だった
最後に、人に話したくなる小話をひとつ。実は、ラガーを造る下面発酵酵母は、性質の異なる2種類の酵母が自然に交雑して生まれた「雑種」だと考えられています。エールにも使われる身近な酵母と、寒さに強い別の野生酵母――その2つがかけ合わさった存在だというのです。
しかもこの雑種は、もともと自然界にそのまま存在していたわけではなく、人が冷たい地下の貯蔵庫でビールを造り続けるうちに、偶然できあがったのではないかとされています。「寒い環境」という実験条件が、新しい酵母を生み出したというわけです。さらに、その親にあたる寒さに強い野生の酵母が、はるか南米・パタゴニアの森で見つかったという研究報告もあります。ただし、いつ・どこで交雑が起きたのかについては諸説あり、はっきり決着しているわけではありません。
グラスの中でシュワシュワと働いている小さな酵母に、そんな壮大な「生い立ちの謎」が隠れている――そう思うと、次の一杯の味わいも少し違って感じられるかもしれません。まさに、人生まるごと実験室。身近な一杯にも、まだ解き明かされていない不思議が詰まっています。
※お酒は20歳になってから。20歳未満の飲酒は法律で禁止されています。飲酒は適量を心がけ、体質や体調に合わせて楽しみましょう。
